日本酒は幻の芸術品である

 「酒」を語る言葉は多いが、しかしそれは死んだ子を思い出してその思い出に浸るようなものである。思いは せつない、そして なつかしい。それは美化された記憶である。
 そういうすばらしい「酒」があるのだと信じて日本酒を呑んでみても、そのような「酒」とはけっしてめぐり会うことができないのである。
 酒は呑まれた時にそれは「酒」となる。一升瓶にはいっている酒はじつは「酒」ではないからである。

 ポスターと呼ばれる印刷物(手書きでもかまわないが)がある。印刷されて倉庫に保管されているそれは物としてはポスターというしかないが、その印刷物は人の目に触れるところに掲示されたときに初めてポスターとしての役目を果たすことができるのである。そしてその印刷物が伝える内容がそれを見た人にうまく伝わった時にそのポスターの価値が決まるのである。

 「ゆかたのお姉さんが手にしている生ビールがうまそうだな」「その生ビールを飲みにいこう」という気になった時にそのポスターは初めて使命をまっとうしたことになる。庵主はお姉さんのほうに気がいくものだからその手のポスターは苦手である。
 使命を全うしたあとも、ポスターならその印刷物は形として残るが、酒はそうはいかない。人に呑まれた時にはじめて「酒」としての評価が定まるのだが、その酒は呑まれることでこの世の中から消えていくからである。

 人は「酒」を語るのである。他の人は絶対呑むことのできない「酒」を慈(いつく)しむのである。ね、ぜったいその「酒」と同じ「酒」を呑むことができないでしょう。
 そんなわけで、庵主は日本酒は幻の芸術品だと思っている。幻の酒という宣伝文句があるが「酒」はもともと幻なのである。「酒」はそれを呑んだ人だけの甘美な記憶なのだから。
  でも、いい「酒」を呑むことは可能です。そしていい酒は「うまい」のです。 「むの字屋」でそのようなおいしいお酒をお楽しみください。